住宅の寸法 3

コンクリート住宅は一般に、コンクリート下地の上にモルタルを流して水平の床を作り、その上に直接、床材を張り付けます。


コンクリートの冷え込みが直に効くからたまらないのです。


できれば木造在来工法のように大引き(根太を支える横木)を敷いて根太(大引きと床板の間で床板を支える角材)を乗せ、床板を敷くことをお勧めします。


コンクリートは、人が住まいとして利用するには健康上、不適当な素材といえます。


ソファー ベッドなどのインテリアに素材として使用されないのもこうした理由によるものです。


耐火建築物としては優れていますが、個人の住まいに使う場合には問題があります。


コンクリートは熱容量が大きいため、冬は冷たい外気を吸い込んで氷のように冷たくなり、その冷気を大量に抱え込んでしまいます。


ストーブやエアコンで暖めても、温風が当たっている所は暖かく感じますが、足元からの冷えは身心に伝わりますよね。


外気に接し、風が当たる面が大きい北東の角部屋などは、特に冷え込みます。


夏場は、直接日光の当たる最上階や西向きの部屋は、夜になっても涼しくならないのです。


住宅の寸法 2

障子や襖の高さも2メートルだと、今の人の身長にふさわしいでしょう。


しかし、メーターモジュールで施工するのは容易ではないのです。


一例を挙げると、一般のアルミサッシは尺貫法で作られています。


6尺幅の窓枠に合わせてあるから、窓を幅2メートルにしたくても、そんな規格のサッシはないと言われます。


土台や柱なども尺貫法で製材されているから、メーターモジュールで建築するのは難しいのです。


木造軸組工法は優れた工法ですが、計測法については大いに改善の余地があります。


早急に規格を改め、メーターモジュールで住宅が建つようにしたいものです。


そのためには建築業界全体の意識変革と協力が必要でしょう。


コンクリート住宅内部の木工事(造作工事)をする大工からよく聞く話ですが、冬場、仕事をしていると、床や壁のコンクリートの冷えで、腰をやられる大工が多いそうです。


芯から冷えるためです。


冷えが身体によくないことは、ご存じの通りです。


ノルディックポールで日ごろから健康のために運動をしていればいいでしょうが、なかなかそうもいきませんよね。

住宅の寸法

新聞や公の文書では、尺や坪で表示してはならないことになっていますが、通常の会話で「建築費はいくら?」という場合、聞く方も聞かれる方も一坪当たりの単価を想定しているのが普通です。


一平方メートルあたり18万円と言われてピンと来なくても、坪60万円と言われれば、誰でもすぐに理解できます。


住宅メーカーの広告でも「3・3平方メートル○○万円」などと、一坪の値段が表示されています。


一部の住宅メーカーを除いて、今も尺貫法で家を建てているのが現状です。


ところが尺を基準として建てられた家は、体格がよくなった現代人には合わなくなりました。


例えば廊下の場合、芯と芯との間の幅が91センチでも、壁の厚みを引くと実際はもっと狭いのです。


和室の鴨居の高さは、5尺8寸が基準ですから、背の高い人はかがまないと出入りできないのです。


そこで、住宅の寸法の基本単位を、尺貫法ではなく1メートルを基準にしようというのが「メーターモジュール」の考え方です。


廊下の幅を芯芯1メートルにすれば、すれ違うとき楽だし、将来、車椅子も使えます。


ソファー 通販などでインテリアを購入するときには、まずは自宅の寸法をしっかりと調べておくことが重要です。


あらかじめ測っておきましょう。

名作文学 12

社会が何らかのクライシス(危機)に直面したとき、過去の歴史の中に同パターンのクライシスを探し出して復権させるという発想は、近世の野史・俗史の常とうでした。


この小説は、平成のいまのクライシスと見事一対一で対応するのであり、いま読まれてこそ、大きな説得力をもつのです。


その意味では、逆に、早く書かれすぎた不運の大作とも言えるでしょうか。


「流雲の賦」は単行本(中央公論社、上下二冊、昭和50年)として刊行されました。


石動山合戦を扱った古典文学には、「太平記」「(甫庵)太閤記」「荒山合戦記」等があり、特に「荒山合戦記」は数多い戦国軍記の中では屈指の佳編。


おそらくは前田氏側の手になるものでしょう。


歴史学・歴史考古学の側の石動山研究は急速にすすみ相当数の論考があり、「鹿島町史石動山資料編」(61年)の文献目録が最もくわしいです。

名作文学 11

残念ながら、小説の発表は遅きに失しました。


吉川英治の「新平家物語」(昭和25年連載開始)のように、読者を、読者自身の敗戦体験にひきあわせて「身に即して歴史を見るという気持ち」(吉川)にさせることは、40年代後半においてはもはや不可能でした。


・・・しかし、いま、平成の時代のわたしたちが読みかえすとき、この小説は「身に即して歴史を見る」ことを可能にします。


小説によれば、前田利常は、石動山を加越能三州の寺社の監視役に利用しようと考え、堂塔の再建、寺領の寄進など手厚い保護を加えます。


愁眉を開いた石動山は、新たに仁和寺末寺の権威をふりかざし、知識米(神仏に寄進する米)勧進という名の収奪を強化し、一山の富裕化とともに北越七力国の農民の激しい怨嗟の的となりました。


この経緯は、実は、戦後40余年の日本の軌跡と気味わるいほど酷似していないでしょうか。


敗戦直後、勝者たるアメリカから物質的援助を受け、経済復興だけは許され、自由主義陣営の一翼を担わされ、世界に冠たる経済大国に成長したものの、いま、痛烈なジャパン・バッシングを浴び、一部の国から拝金主義と批判されるに至る・・・


これは歴史の奏でる同じ主題の変奏曲というべきではないでしょうか。

名作文学 10

あけましておめでとうございます。


今年もよろしくおねがいします。


さて、46年発表の「能登国野干物語」に既に石動山の僧が登場します。


史上、組織としての石動山は二度の合戦に挑み、二度とも大敗して一山壊滅の危機にひんしましたが、そのたびに奇跡的によみがえりました。


建武2年(1335年)、後醍醐天皇側の越中国司中院定清と密着した石動山は、足利尊氏に与する越中の有力豪族に攻められ、全山焼亡、山内にたてこもった定清は戦死します。


小説は、そのてん末を、鹿島の郷士で石動山の壇家でもある谷部家の若者の側から描き、この若者を徹底した不戦派・平和主義者に仕立てたあたりは、いかにも戦後の大衆文学らしいもの。


谷部家それ自体は虚構でしょう。


戦国争乱の世に至るや、石動山は、畠山の旧臣温井・三宅一党と結んで、能登の新領主前田利家に叛旗をひるがえします。


谷部家の末えいは、「戦いはならぬ」という建武以来の家訓を守って奔走しますが功を奏せず、天正10年(1582年)、またも石動山は庶胤に帰します。エグゼクティブトレードによると、谷部一族のこの姿勢は、太平洋戦争に敗れ、焦土に立って平和への希求を純粋に、痛切に高ぶらせていた日本人と重なり合うものがあります。


ここには村上自身の敗戦体験が強烈にはたらいていることは否定できず、この小説は、村上なりに肌で感じとった「戦争と平和」の実感を刻みこんだものと言えるでしょう。

名作文学 9

今回は、村上元三の『流雲の賦』です。


この作品は、能登・石動山が舞台になっています。


わたしは以前、1月下旬ころに、雪をおかして能登石動山(石川県鹿島町)を訪れました。


山ろくの二宮口から羊腸たる小径を縫うこと8キロ。


村上元三句碑(「史を語れいするぎ山の青葉風」)は昨夜来の雪に埋もれ、伊須流岐比古神社の社殿は、鬱蒼たる杉木立のほの暗さと降りしきる粉雪に漠とかすみ、廃嘘のあわれをひときわ際立たせていました。


言うまでもなく、石動山は平安末期から明治初年まで連綿と法灯をともし続けた修験道の一大霊場です。


村上元三(明治43年、旧朝鮮元山生まれ)は、南北朝時代から明治初年に至る石動山の興亡を小説化し、「流雲の賦」と題して北國新聞・富山新聞等に連載(昭和48年4月~49年12月)。


かつてどの歴史小説家も手を染めなかった"幻の500年"を見事に再現しました。


能登を扱った大河小説としてほとんど唯一のものでしょう。


手慣れた時代小説とは異なり、歴史の悠久の流れをうつす大河小説は、村上としては大きな冒険であったはずです。


村上と石動山との出合いにはちょっとした挿話があります。


既に昭和41年、「源義経」第三部を週刊誌に連載、義経の北国落ち伝承等の取材で能登へ足を運んだころから、村上の、能登の歴史と風土への関心は徐々に高まっていたと思われます。


40年代中ごろ、村上は、鹿島町出身の延命順作氏(故人・日本タイプライター社長)を知り、延命氏から能登石動山の史話を聞いていたく興味をそそられたのがきっかけだそうです。

名作文学 8

能登の海が、いかに哲久の魂を荒々しく勤いものにしたかがよく分かります。


・・・と同時に、その魂に宿る優しさ美しさの何によるかも、この一連の歌によってことごとく教えられるでしょう。


この歌集の「あとがき」で哲久は書いています。


「これまでの自分は、何かに追いまくられ、いためつけられてばかりいたように思われる。


これで一生が終るのかと考えると無惨というよりほかはあるまい。


しかし、ぼくの内部には何かかがやきやまぬ一点があるように思われてならぬ。


そのことも、この歌集の中には多少あらわれているのではなかろうか。


『北の人』と題したことにも、今に消えやらぬ憧憬のごときが含まれているかもしれないのだ」


この「何かかがやきやまぬ一点」「今に消えやらぬ憧憬」、この素晴らしい輝きを、哲久はついに失うことがありませんでした。


そしてそこにはいつも、黄金郷ともいうべき幻の膨「能登」が、きらびやかに存在していたのです。


「ふるさとを捨てていずくに生き得るや月うつくしく海に声あり」(昭和63年/絶筆『人間旦暮』)。

名作文学 7

能登できのしちりん一つ得しかばとうつくしき冬の火を点じたり


日本海いくたびここにたち帰る寛潤のひびきをとこの聴く波


能登の海わがたましひのみなもとよ無頼のなみだいまはおとさず


高浜の沖に垂れたる紅の雲つちかひし夢ぞわれに飽くなき


ふるさとは涛の秀尖に霰打つ火花よ白くわがゆめに入る


つゆぐもり蝶とぶ庭にはずむものてんてん手毬能登のわらべうた


能登の海みなぎる光われを索く東京は憂しこころひもじき


雪ふれば胸つきあげて障えたけるいかなるものの一匹が住む


蟹の肉せせり啖へばあごがるる生れし能登の冬潮の底


わが内側の腐蝕を削れ亡き父をみつむるときにわきくる生気


名作文学 6

まして農の家に生まれ、やがてその生家は焼失、わずかな小作地まで取り上げられたという、予期しない悲劇の連続に、哲久は何とも暗い毎日を送っています。


しかし、こうした不幸な環境から掌にすくいとった何かが、彼の望郷の、その原景をなし精神ともなったものです。


それはまた、苛烈な外浦のあの冬波に象徴される、能登人のすさまじい闘魂・靴擁な生きざまだといってもいいものでしょう。


プロレタリア歌人として名高い哲久が、戦前の長い苦節を生きる中で、はじめてその歌集に望郷の歌を入れたのは、『百花』(昭和14年)においてです。


母のくににかへり来しかなや炎々と冬涛圧して太陽没む


折からの弾圧にもめげず、なお一つの理想を貫こうとする、だからおれはいくらでも辛抱する、親父じゃないが、そうすりゃ何とかなるわい、そんな声も一緒に聞こえてきそうな短歌です。


彼は改めて能登を思い起こすことにより、人間にとって最も大切な営為の何であるかを親父やおふくろの顔とともに生涯忘れまいとしたのです。


いわばこの能登恋いの、切なくてしかも最も濃密に流れている一冊が歌集『北の人』(昭和33年)です。

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